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カツラの葉っぱ 大好き!

カツラの葉っぱ 大好き!

高橋源一郎アンソロジーR4

<高橋源一郎アンソロジーR4>
そもそも高橋源一郎を表わす肩書きとは何になるのか?・・・
朝日新聞で、毎月「論壇時評」を書いているくらいだから評論家なのかな?(注)
Wikipediaをのぞいてみると、小説家、文学者、文芸評論家、大学教授と併記しています。
ということで・・・
多芸な高橋源一郎の全貌に迫るべく、アンソロジーとして集めてみます。

・平野啓一郎『モノローグ』
・収容所の外国人、完了のない支配
・『退屈な読書』
・『もっとも危険な読書』
・ゴヂラ
・『ぼくらの民主主義なんだぜ』
・『私はシャルリーだ』への違和感
・「文章」に反対する
・ニッポンの小説
・私生活
・論壇時評

注:朝日新聞の「論壇時評」は林香里さんに交代しています。
R4:『モノローグ』を追加



【モノローグ】


平野啓一郎著、講談社、2007年刊

<「BOOK」データベース>より
三島由紀夫の新たな読みを提示した「『金閣寺』論」、「『英霊の声』論」を中心に、文学、音楽、美術、建築、そして、自らの作品について論じたファーストエッセイ集。『日蝕』の衝撃的デビューから現在まで、常に時代の最前線に立ちつづけた著者の軌跡。

<読む前の大使寸評>
目次を覗いてみると・・・著者の守備範囲が広いことが圧倒的でおます。

amazonモノローグ


この本で、高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』が語られているので、見てみましょう。
p188~190
<最近になって「処女作」を読んで>
 講談社文芸文庫から『ジョン・レノン対火星人』が復刻されたお陰で、私も、なかなか手にする機会を得なかった高橋さんの<幻のデビュー作>(初稿のタイトルは『すばらしい日本の戦争』)を、最近になってようやくゲットしたのだが、読み始めて、読み終わるまで、ずっと、「わぁ、こりゃすごいな」という印象だった。傑作に触れた時の興奮というのは、大体そんなもので、分析的な読みというのは、あとから遅れて息せき切って追いかけてくるものである。

 この小説が、当時、群像新人文学賞の選考会で、選考委員の理解をまったく得られなかったというのは、今にしてみれば、滑稽と言うより、なんとなく気の毒な感じのする話である。高橋さんにとっては勿論のこと、分からなかったという選考委員も気の毒だし、講談社も、まァ、気の毒だったのだと思う。

 得体の知れないものに接した時の人の態度は、拒絶するか、既知のパターンに暴力的に同一化した処理するか、とにかく面白がるかのいずれかで、同時代人に対するポウズとしては、知らん顔するのが無難だろうが、時が経ってみれば、反応出来たことの価値はいや増すものである。第一に分かったということ、第二に分かったかどうかはともかく、何かを感じてそれを表明する勇気があったということ。その点、後の人間は、素直に感心しさえすればいいのだから気楽なものだ。

 私はどうも、人の年齢が気になる質で、ちょうど自分が30歳になったから、先行する世代の作家たちは、同じ年頃に、どんな作品を書いていたのだろうと、少し前から考えていたのだが、そうして見ると、三島由紀夫の『金閣寺』も、大江健三郎の『万延元年のフットボール』も、中上健次の『枯木灘』も、みんなこの30歳から32歳くらいの年齢で書かれている。この偶然は、何なんだろう? 『ジョン・レノン対火星人』に妙に感動して、巻末の年齢を見ると、これまた30歳である。高橋さんの場合、20代の作品はないが、しかし、例の失語症を克服するためのトレイニングというのは、ちょうどこれに相当するものだったのではあるまいか?

 それにしても、あえて恣意的に並べてみたのだが、こうして上記の三作と比較してみると、確かに『ジョン・レノン対火星人』は、当時の流行で言えば、一種のUnidentified Flying Objectとして、文壇に(そして、今から見れば文学史に)火星人的に飛来して人を驚かせたのだろうと思われる。UFOへの想像力というのは、常に、こんなことが出来てしまうという、その技術水準の高さを畏怖する心性によって支えられているものだ。

 先日テレビで、とある正直な料理人が、人の作ったうまい料理を口にすると、「なんか、ムカツク」と言っていたが、その気持ちは、モノを作る人間には誰にでも多少はあるもので、今もし、こんな作品を同い年の作家に発表されたら、私もちょっと心中穏やかではないかもしれない。
 最も羨むべきは、同業者にどこかイヤな気分な味わわせるような才能である。




<(歩きながら考える)収容所の外国人、完了のない支配>
朝日新聞の(歩きながら考える:高橋源一郎)シリーズをスクラップしてファイルしているのだが・・・
そうだ 朝日デジタルがあるではないかと気づいたわけです♪

スクラップファイルとデジタルデータとダブルで保存するところが、いかにもアナログ老人ではあるなあ。



(歩きながら考える)収容所の外国人、完了のない支配2019.1.17




【退屈な読書】
高橋

高橋源一郎著、朝日新聞社、1999年刊

<「BOOK」データベース>より
死んでもいい、本のためなら…。すべての本好きに贈る世界でいちばん過激な読書録。

<読む前の大使寸評>
先日、『もっとも危険な読書』という書評集を読んでよかったので、この本もイケてるのではないかという算段でおます♪
『退屈な読書』が2年早く刊行されているので、2匹目ではなくて先行するドジョウとなるが。

amazon退屈な読書
『退屈な読書』2:日本語に関するエッセイ




<『もっとも危険な読書』3>
図書館で『もっとも危険な読書』という本を、手にしたのです。
図書館大好きの大使としては、書評集もツボになるわけで・・・
高橋源一郎著のこの本など、そのツボに的中しているわけでおます。


【もっとも危険な読書】
危険

高橋源一郎著、朝日新聞出版、2001年刊

<「BOOK」データベース>より
スリル、緊張、集中、恐怖に近い感情の揺れ。やがて世界が一変する。静かで単調な表面の奥に、そんななにかを隠した本を読んでみたい。-読書の快楽を通して人と時代の機微をとらえた129篇のエッセ・クリティーク。

<読む前の大使寸評>
図書館大好きの大使としては、書評集もツボになるわけで・・・
高橋源一郎著のこの本など、そのツボに的中しているわけでおます。

rakutenもっとも危険な読書


『もっとも危険な読書』1:料理の哲人・島田雅彦
『もっとも危険な読書』2:関川夏生の「かたち」
『もっとも危険な読書』3:老人力元年か、晩年学元年か



<ゴヂラ>
図書館で『ゴヂラ』という本を手にしたが・・・・
マルチ・タレントの高橋源一郎の小説というのも一興かと思い、借りたわけでおます。


【ゴヂラ】
ゴヂラ

高橋源一郎著、新潮社、2001年刊

<「BOOK」データベース>より
最近、どうもおかしい。世界全体が変なんだ。石神井公園の町に閉じこめられてしまった詩人。駅前で悪人募集のビラを撒いてる『影の総裁』。「正義の味方」をやってる作家のタカハシさん。“いけないこと”を唆す、本物の漱石と鴎外。でも、ゴヂラはなかなか現れない。いつになったらゴヂラは出て来る?どうしてゴジラでなく、ゴヂラなのか?謎を解きたくて、秘密を知りたければあいつの正体を突き止めるしかない。世界の秘密がわかってしまう、同時多発小説。

<大使寸評>
作家のタカハシさんは、冒頭から痴漢疑惑にさらされるわけで・・・
良い子は、この小説を手にしない方がいいかも。

rakutenゴヂラ



<ぼくらの民主主義なんだぜ>
朝日の書評欄が『ぼくらの民主主義なんだぜ』を取り上げていました。
この本は大使が新聞からスクラップしている記事とかなりダブるけど・・・ハンディな新書で読むと、通底音が聴こえてきたりするのではないだろうか♪


ぼくらの民主主義なんだぜより
高橋

<小さな声に耳を傾け、対話する:長薗安浩> 
 2011年4月から朝日新聞紙上ではじまった高橋源一郎の論壇時評。毎月1回、論壇雑誌や書籍だけでなく、インターネット上の言説にも注目しながら、高橋は日本の「いま」と向きあってきた。その初回から欠かさず読んできた私は、今年3月までの48本を掲載順に編んだ『ぼくらの民主主義なんだぜ』を読み、高橋が抱いている思いをひしひしと感じとった。

 それは、タイトルにもある民主主義への危機感だった。東日本大震災と原発事故を機にあらわになったこの国の民主主義の脆弱さに直面し、戸惑い、時に悲嘆する一方で、高橋は絶望しないために、いつにもましてメディアの細部に目を配り、小さな声に耳を傾ける。そこには、既存の大きなシステムに依存しない、自分のことばで考えながら行動している人々が確かにいる。高橋はそれらの事実を紹介しつつ、民主主義への論考を深め、その基盤となる対話の重要性をくりかえし説く。
〈「インテリジェンス」っていうのは、要するに「対話ができる能力がある」ってことじゃないかな〉

 最後は多数決に拠るとしても、それ以前に少数の意見に耳を傾ける。対話をふまえて先に進む。高橋は、台湾でおきた学生たちによる立法院占拠事件をとりあげ、その撤退決定の際、リーダーがデモの参加者全員と対話した態度を讃えてこう記した。
〈学生たちがわたしたちに教えてくれたのは、「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム」だという考え方だった〉

 自分の意見に与しない相手をすぐに罵倒する風潮が強まる中、そして数の論理で早々に憲法すら変更されそうな現在、私たちは民主主義に試されているのかもしれない。状況はかなり切迫しているが、それでもまずは相手の話をよく聞き、対話を求めていくしかないだろう。私たちの民主主義のために。



高橋源一郎著、朝日新聞出版、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
大きい声より小さな声に耳をすませる。震災と原発、特定秘密保護法、若者の就活、ヘイトスピーチ、従軍慰安婦、表現の自由などを取りあげながら、壊れた日本を作り直す、絶望しないための48か条。著者の前人未到の傑作。
【目次】
ことばもまた「復興」されなければならない/非正規の思考/みんなで上を向こう/スローな民主主義にしてくれ/柔らかくっても大丈夫/「そのままでいいと思ってんの?」/一つの場所に根を張ること/「憤れ!!」/「憐れみの海」を目指して/民主主義は単なるシステムじゃない〔ほか〕

<読む前の大使寸評>
高橋源一郎の論壇時評は2012年8月から新聞スクラップしている大使である。
だから、この新書の大部分を一度は読んでいるのだが、例の如く、記憶のかなたにあるわけです。
新聞スクラップとかなりダブるけど・・・ハンディな新書で読むと、通底音が聴こえてきたりするのではないだろうか♪

<図書館予約:未>

rakutenぼくらの民主主義なんだぜ




<『私はシャルリーだ』への違和感>
フランスで湧き起こった『私はシャルリーだ』メッセージには、日本人として全面的に賛同できない違和感があるが・・・
高橋源一郎氏が、エマニュエル・トッドの言葉を借りて、その違和感を紹介しています。

トッドエマニュエル・トッド


2015/01/29熱狂の陰の孤独「表現の自由」を叫ぶ前により  
「表現の自由」が侵害されたとしてフランス中が愛国の感情に沸き立つ中で、フランスを代表する知の人、エマニュエル・トッドは、インタビューにこう答えた。

「私も言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続ける『シャルリー・エブド』のあり方は、不信の時代では、有効ではないと思う。移民の若者がかろうじて手にしたささやかなものに唾を吐きかけるような行為だ。ところがフランスは今、『私はシャルリーだ』と名乗り、犠牲者たちと共にある。私は感情に流されて、理性を失いたくない。今、フランスで発言すれば、『テロリストにくみする』と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だからフランスでは取材に応じていない。独りぼっちの気分だ」

 トッドを「独りぼっちの気分」にさせたその国ではなにが起こっているのか。「移民2世や3世のイスラム教徒の若者は権利を奪われ、チャンスも未来もないと感じている。殺伐とした高層住宅が並ぶパリ郊外の貧困地区には、多くのイスラム系住民が暮らす。よほどの幸運か意志がなければ、そこを抜け出すのは不可能に近い」とジャニーン・ディジョバンニは書いた。

 ヨーロッパは多元的な文化の融和を目指してきた。だが、それは困難に直面している。「イスラム国」に象徴される、イスラム過激派を表立って支持する者はいない。だが、竹下誠二郎によれば、ある調査は「フランスでのISIS(イスラム国)への支持率は16%に達するが、移民のルーツを持ち、社会的に隔離されているか失業している若者に至っては27%にもなる」と伝えている。

 ヨーロッパの移民社会の若者たちは貧困と差別の中で、行き場を失いつつある。明るい希望がないなら、せめての希望は、自分を受け入れない豊かな社会が壊れる情景を見ること、となるだろう。

 この、社会の深刻な分裂を糧にして、移民を排斥する極右は不気味に支持を伸ばしている。だが、これらすべては、わたしたち日本人にとって「対岸の火事」ではない。この国でも、貧困と差別は確実に拡大しつづけているのだから。


違和感は、結局、貧困と差別や、移民やヘイトスピーチと関連しているわけですね。
トッドの寛容さ、優しさはフランス人離れをしているほどだと思った次第です♪


<「文章」に反対する>
『日本語文章がわかる』という本を図書館で借りて読んでいるのだが・・・
その中で、高橋源一郎が創作のヒントを語っているので、その一部を紹介します


<「文章」に反対する>よりp56~58
■ぼくは本当に「文章」を書いているのか?
 ぼくが職業的に文章を書くようになって20年ぐらいになる。けれども、こうやって、文章を綴りながらも、ぼくは自分がほんとうに文章を書いているような気がしないのである。そのことをうまく説明できるかどうか、ぼくにはよくわからない。けれども、なんとか、やってみることにしよう。

 人は何かを考え、そのなにかを表現するために言葉を用いる、というのは嘘だ。人は、虚空でものを考えることはできない。言葉がなければ、考えることすらできない。人はただ言葉を用いることによってのみ、ものを考えることができる。あるいは、言葉を用いることは、ものを考えることと等しい、といってもいい。

 では、目の前におかれた本の中で、誰かが書いている「文章」ではどんなことが起こっているだろう。あるいは、どんなことが起こっているように見えるだろう。
 そこでは、やはり、なにかを考えたり、表現したり、といったことが、いままさに起こっているように見える。そこで、人は、なにかを思索したり、なにかの意図をもって、架空の人物に、何かを話させてたりしている。まさに、そのことによって、その作者は、彼が書く文章の、あるいは、彼の使う言葉の支配者になっているように見える。
 しかし、それは本当だろうか。

■誰かになりすました「ぼく」
 ぼくがそのことに、はじめて疑問をもったのは、20歳頃、文体模写に励んでいた時のことだった。
 もちろん、はじめからぼくに「文体模写」という意識があったわけではない。ぼくは、当時流行っていた、さまざまな作家たち、詩人たちの声を口真似する鸚鵡に過ぎなかった。しかし、ぼくは、それが口真似であることに気づかず、まるで自分が、彼らと同じような声を持ったと錯覚して、愚かな歌を歌い続けていたのだった。

 たとえば、吉本隆明が書くような評論を書くと、彼のように、世界を呪詛する言葉が、すらすらと生まれた。長田弘や堀川正美が書くような詩(のようなもの)を書くと、まだ経験したこともない、どこかにいる少女への愛の言葉が自然に紡ぎだせた。北川透が書きはじめていたような硬質で戦闘的な詩論を書くと、詩と政治の間のことが、するすると綺麗に解けるような気がした。埴谷雄高が遥か昔から書き続けていた、謎めいた政治評論に似たものを書くと、マルクス主義が死滅した後の景色がはっきり見えるような気がした。
 よく考えてみれば、それらの、ぼくが書いていたさまざまな「」の間に、内的な、そして強固な繋がりはなく、それぞれがばらばらに、まるで、分裂した人格が書いたものであるかの如くに存在していた。
 「分裂した人格」
 それは、当時のぼくを表現するのにもっとも適した言葉だったろう。ぼくは、ただ「文章」を模倣したのではなかった。その作家や詩人の口真似をすることによって、その作家や詩人に似た考えを持ち、似た感受性を持ったような気がした。つまりぼくは、彼らになりすましたのである。

(中略)

 それが頂点に達したのは、吉田健一に出会ったときのことだった。
 ぼくは、彼の「文章」に強くうたれ、また、以前と同じように、彼の口真似をはじめた。以前とちがったのは、しばらくの間、他の誰の口真似もしなかったことだ。ぼくは毎日、吉田健一が書くような「文章」を書いて暮らした。吉田健一のように感じ、吉田健一が書くであろう対象について書いた。そして、ある日、突然、ぼくは夢から覚めた。いや、悪夢から覚めたような気がした。

 手元に膨大なノートが残っていた。そこには、吉田健一風の「文章」で書かれた、長大な思索の跡があった。しかし、それは本当の思索ではなかった。ぼくは、ただ考えたような気がしただけだった。ぼくはなにも考えてはいなかった。自分の書く「文章」に酔いしれながら、考えているふりをしていただけだった。




<ニッポンの小説>
図書館で『ニッポンの小説』という本を借りて読んでいます。
小説とか文学に関して、高橋源一郎の独特な語り口に付き合うのは、ちょっと面倒かもしれないな~・・・と、読む前から期待と怖気が交錯するのである。

とにかく、高橋源一郎の文章が長いので、読むのに疲れるわけです。
彼の頭の中には言葉、文学、政治などが渦巻いているわけで・・・・
いいこと言っているんだけど、彼の思考や文体に付き合うのは疲れるのだ。


【ニッポンの小説】
小説

高橋源一郎著、文藝春秋、2007年刊

<商品の説明>より
小説家として数々の文学賞を受賞し、さらに文芸評論も手がけ、そのものズバリ『文学がこんなにわかっていいかしら?』という著書もある高橋源一郎。本書ではその変幻自在な語り口と巧妙な仕掛けの数々とで、現代日本の言葉・文学・小説の可能性を喝破してくれる。

<読む前の大使寸評>
高橋源一郎が、その独特な語り口で文学を語っているようです。
そもそも高橋源一郎を表わす肩書きとは何になるのか?・・・
朝日新聞で、毎月「論壇時評」を書いているくらいだから評論家なのかな?
Wikipediaをのぞいてみると、小説家、文学者、文芸評論家、大学教授と併記しています。
なるほど多芸なので、併記するしかないようです。

rakutenニッポンの小説


この本からプロローグの一部を紹介します。
言葉と文学と政治について語っているが・・・本質に直行するスタンスがいいのでは、ないでしょうか♪

<プロローグ>よりp14~16
 新聞やテレビが「如何なる時でも暴力を用いるべきではない」などといっている時に、「いや、少なくとも、そこでは、単純に『暴力』という言葉を使うべきではない、誰にとっての『暴力』なのか、あるいは、それはほんとうに『暴力』と呼ばれるべきものなのか、誰かが、勝手にそれを『暴力』と呼んでいるだけなのではないか」というようなことをいいたかったからです。そして、それは、ランボーが24歳で詩を断念したというのは、単なる伝説であって、実際にはその後でも詩を書き続けていた、というようなことについて論じるより、遥かに、「文学」について論じることになる、と思ったのです。

 「テロ」という言葉の周りでも、17歳のわたしの周りで、「暴力」という言葉について起こったのとまったく同じ事件が起こっています。こういうことは際限なく、繰り返し起こるのです。
 「テロ」という言葉は、要するに、誰かが敵対する相手について投げかける言葉です。そして、これもまたたいへん興味深いことなのですが、「テロ」という言葉は、自分自身の、あるいは、自分自身が賛意を示す行為については、決して、投げかけようと思ったりはしない、そういう種類の言葉です。つまり、それは、百パーセント、政治的な言葉であり、流行語になりうるすべての素質を持っている言葉なのです。

 だから、「テロ」という言葉ではなく、ほんとうはもっと別の言い方を採用すべきなのです。たとえば、「彼らはテロリストだ」というのではなく、「彼らを殺してやる」とか「彼らが憎い」とか「彼らのすべてが嫌いだ」というべきです。あるいは、「テロを許さない」というのではなく、「やつらを抹殺してやる」というべきなのです。なぜなら、「テロ」という言葉には、そういう意味しか、そういう使い方しか存在しないからです。

 では、「テロ」というような言葉を使いたくないとするなら、どうすればいいのでしょう。「テロ」という言葉を使わず、それでもなお、壊れたビルについて、飛行機をそこまで運んでいった人間について、壊れつつあるビルから降って死んでいった人間について、なにかをいおうとするなら、どうすればいいのでしょうか。
 
 そのことについては、もう、わたしは話したのではないでしょうか。
 それが「言葉」に関する事柄であるなら、「文学」というものの出番があるのではないかと。


この本から文芸時評あたりを紹介します。

<ちからが足りなくて>よりp302~305
 ぼくは、『文芸時評という感想』を読んで、深い感銘を受けた(ほんと)。ただし、その理由は、単純ではない。

 だいたい、ぼくは、「文芸時評」というものが昔から、好きだ。もしかしたら、それが対象としている文学作品よりも好き、かもしれない。そのことで悩んだこともある。作品自体より、それを論じたものの方がおもしろがるなんて、本末転倒ではないか、と。
 しかし、それは、ぼくのせいだろうか?もしかしたら、(文学)作品よりも、それを論じたものの方がおもしろいのではないか。つまり、(文学)作品なんてものは、もうそれほどまでにおもしろいものではなく、その事実の指し示すもの、つまり、(文学)作品というものがそれほどまでにおもしろくなくなってしまったこの世界のあり方や、この世界のあり方や、この世界のことばのあり方を探ることの方が、ずっとおもしろく、有益なものに、なってしまったのではないか、とぼくは思ったのだ。

 だからといって、あらゆる「文芸時評」がおもしろいわけではない。
 だいたいにおいて、文芸批評家という人たちが担当する文芸時評は、あまりおもしろいものではない。
 それは要するに、小説というもの(文学というもの)が、よくわかってはいないと思われることが多々あるからだ。
 いや、それよりも、小説というもの(文学というもの)への愛情が、あるいは、尊敬が、不足しているように思える人が多いからだ。

 では、小説家本人が担当する文芸時評は、どうか。批評家たちのものよりはましかもしれない。少なくとも、彼らは、小説というもの(文学というもの)が、(批評家よりは)わかっているし、(なにごとにも例外はつきものだけど)、小説というもの(文学というもの)への愛情も溢れている(この場合も、例外あり)。
 だが、残念なことに、小説家の担当する文芸時評にも、欠陥がつきまとう。
 その1。小説がどのように書かれているのか、そのことに、なまじ詳しいだけに、小説一般(あるいは小説家一般)に、同情的な態度をとりがちになる。
 その2.その1に付随して、視野が狭くなりがちだ。小説というもの(文学というもの)を、客観的にみることができなくなる。もっと露骨にいうと、ヘタクソなもの、つまらぬもの、古びたものを前にすると、見て見ぬふりをすることがある。誰も、仲間の醜態を見たくはないのだ。文芸批評家でもダメ、小説家でもダメとなると、いったい、誰が文芸時評を担当すればいいのか。

 そこで、荒川洋治さんの登場となる。
 荒川さんは、ことばの専門家で、詩の専門家だ。それが、いい。
 つまり、ことばの専門家ではあるけれど、小説の専門家ではない。よく似た仕事をしている「隣の人」。それが、荒川さんと小説の関係だ。ぼくの考えでは、批評というものは(とりわけ、「時評」というものは)、よく似た仕事をしている「隣の人」が担当するのがいちばんよしいのだ。
 どんなことをやっているのかスラスラわかる。だからといって、「同じ業界」意識はないから、客観的に、突き放してみることもできる。

巻末に、初出誌「文学界」2005年1月号~2006年6月号と書いてあるが・・・
高橋さんが1年半かけて書いた内容であり、それを読みきるのは諦めて、関心のあるところをつまみ読みした次第です。



<私生活>
多重人格のような高橋源一郎であるが、軽い話題や音楽、旅などを集めた本である。

【私生活】
高橋

高橋源一郎著、集英社インターナショナル、2004年刊

<「BOOK」データベース>より
1999年から2003年までの5年間、高橋源一郎は、離婚、結婚、破局、再び結婚など、世間を大いに騒がせていた。「本当のことは書かない」という作家が、当時月刊『PLAYBOY』に綴ったエッセイには、「私生活」を暗示するヒントが散りばめられている。文学、音楽、旅、ワイン、競馬、家族、そして女性…。多岐にわたるテーマで書かれた日常の中に、作家の真実の姿がある。

<大使寸評>
高橋源一郎という人は、バツ4なんだそうです。
こんな人が、朝日新聞で毎月、論壇時評を著わしているが、由々しき事態ではないか?(笑)
だいたい、この『私生活』という書名からして、開き直りとでもいうものである。

Amazon私生活


この本からエッセイの一節を紹介します。
あ わりと真面目に語っていますね。

<ケルトの国から>よりp50~51
 10月のはじめ、わたしはダブリンにいた。アイルランドを訪れるのは、それが二度目だった。朝には霜が降りるほど寒く、わたしは分厚いジャンパーを着て外出することにしていた。わたしが泊まっていたのは、U2のメンバーが経営していることで名高い「クラレンス・ホテル」だった。「クラレンス・ホテル」のスタッフはみんな、超モダンな制服を着た異様に美しい男ばかりで、モノトーンでまとめられた室内は未来都市の一角のようだった。だが、一度、視線を遥か窓の外に巡らすと、そこには古く濁った、けれども不思議に生き生きとしたダブリンの街並みが広がっているのだった。

 ダブリンの市内にはいつも音楽が溢れていた。クラブではテクノが流れていたが、目抜き通り、たとえばトリニティ・カレッジの角からはじまるグラフトン・ストリートでは大道芸人たちに交じってギターを抱えた歌手たちが美しく伸びやかな声で、アイリッシュのメロディーを歌っていた。そして、深夜ともなると、暗い通りのあちこちで酔漢たちがあらゆる曲を勝手気ままに合唱しているのがホテルの窓まで響いてくるのだった。ああ、なんと、「夢のカルフォルニア」を歌っている!

 イギリスの友人たちは、アイルランドへ来ると故郷に戻ってきたような気がするという。彼らだけではなく、アイルランドを訪れる人間は誰でも、なんともいえない懐かしい感覚に襲われる。それは、単純で荒々しい風景のせいだろうか。あるいは、そこに住む人たち、世界でいちばん酔っぱらいの多い、世界でいちばん話し好きといわれるアイリッシュピープルの人間臭さのせいだろうか。この小さな国は、世界でもっとも古い文化と言葉を持ち、偉大な作家や詩人をたくさん生んできたのだ。そう、そして音楽を。




<論壇時評>
高橋源一郎は、毎月、朝日新聞で論壇時評を語っているので、その最新版を紹介します。この真面目な顔も、多重人格のような高橋さんの一面なんだろう。


9/25(論壇時評)「愛国」の「作法」についてより
 学校で「新聞」を作るプロジェクトに参加している小学生の息子が、おれの机の上に積まれていた新聞と雑誌を見つけ、「これ、なに? 読んでいい?」と訊いてきた。おれは、少し考えて、「止めときな」といった。
 「なんで?」

 「下品で卑しいものが混じってるから。そのうち、きみはそういうものにたくさん出会うことになるだろうが、いまは、もっと気品があって美しいものを読んでいてもらいたいんだよ。パパとしては」

 「わかった」。そういって、息子は書斎を出ていった。おれは、なんだかちょっと悲しく、憂鬱だった。

 朝日新聞は、二つの大きな「誤報」を作り出した〈1〉〈2〉。「誤報」に関しては、擁護のしようもない。その後の対応も、どうかしている。だから、批判は甘んじて受けるべきだ、とおれは考えていた。机の上にあったのは、その「誤報」を批判するものだった。

 その中には、有益なものも、深く考えさせられるものもある。だが、ひどいものも多い。ひどすぎる。ほんとに。罵詈雑言の嵐。そして、「反日」や「売国」といったことばが頻出する。

 そんなことばが使われること自体は珍しくない。「前の戦争」のときにおれたちのこの国で、1950年代のアメリカで、旧ソ連時代のロシアで、そして、ナチス支配下のドイツで、「愛国」の名の下に、それに反すると認定された者は、「売国奴」(ときに、「共産主義者」や「人民の敵」ということばも使われた)と呼ばれ、容赦なく叩きのめされ、社会的に(あるいは身体的に)抹殺された。いまも世界中で、同じことは行われ続けている。いや、気がつけば、おれたちの国では、その「語法」が、「憎しみ」と軽侮に満ち、相手を一方的に叩きのめす「語法」が広がっている。

     *
 2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の飛行機が突入した。イスラム原理主義グループによる同時多発テロだ。ベルリン滞在中のアメリカ人作家スーザン・ソンタグは、その2日後、このことについて意見を書き、テロから6日後に発売された雑誌に掲載された〈3〉。
 ソンタグはこう書いている……まず、共に悲しもう。だが、みんなで一緒に愚か者になる必要はない。テロの実行者たちを「臆病者」と批判するが、そのことばは彼らにではなく、報復のおそれのない距離・高度から殺戮を行ってきた者(我らの軍隊)の方がふさわしい。欺瞞や妄言はなにも解決しない。現実を隠蔽する物言いは、成熟した民主国家の名を汚すものだ、と。

 この発言は、「団結」を乱すものとして、全米で憤激を巻き起こした。ソンタグは「アメリカの敵」を擁護する「売国奴」と見なされ、殺害予告をされるまでに至った。それでも、ソンタグはすぐにニューヨークに戻り、発言を続けた。

 彼女は、どうしてそんな発言をしたのだろうか。おれは、ずっと考えてきた。もしかしたら、彼女は、殺されても仕方ないと思っていたのかもしれない(彼女は、長期にわたる癌闘病生活を送っていて、2004年に亡くなる)。

 愛する祖国が、憎悪にかられて、暴走するのを止めるために、「正気」に戻るよう促すためには、それしか方法がなかったのかもしれない。実際、ブッシュ政権下のアメリカはやがて、「イラクには大量破壊兵器がある」という情報を捏造して、戦争を開始することになるのである。

 おれは、ソンタグのような人間こそが、最高の愛国者ではないかと思う。同じような事件がこの国で起こったとき、同じような感想を抱いたとして、ソンタグのようなことが書けるか、といわれたら、おれには無理だ。そんな勇気はない。

 ソンタグはこんなことをいっている。「自分が大切にしている諸権利やさまざまな価値の相克に、私は取り憑かれている。たとえば、ときとして、真実を語っても正義の増大にはつながらないということ。ときとして、正義の増大が真実の相当部分を押さえ込む結果になるかもしれない、ということ。(略)

 私自身の見解は、もし真実と正義のどちらかを選ばざるをえないとしたら――もちろん、片方だけを選ぶのは本意ではないが――真実を選ぶ」〈4〉

     *
 ジャーナリズムのことばと文学のことばは違う。けれど、共有しているものもある。だから、いまのことばを朝日新聞に贈りたい。「誤報」問題が起こったのは、自分たちの「正義」を絶対視してしまったからであるように思えるのだ。

 人は間違える(おれもしょっちゅう間違える)。組織や社会も間違える。国もまた間違える。それがすべての出発点であるように、おれは思う。それがどのような「正義」であれ、「おれは間違っていない」というやつは疑った方がいい。「愛国者」であると自称する連中は「国の正しさ」に敏感だ(だから、「正しくない」といわれると攻撃する)。だが、正しくなければ愛せないのだろうか。ソンタグにとって、祖国アメリカは、「正しさ」と「不正」の入り交じった存在だった。その、矛盾する、等身大のアメリカをこそ彼女は愛した。

 自称「愛国者」たちは、「愛国」がわかっていないのではない。「愛」が何なのかわかっていないのだ、とおれは思う。こんなこといってると、おれも、間違いなく「反日」と認定されちまうな。いやになっちゃうぜ。


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